私は二児の父親だが、一人目の子が先日小学校受験を終えた。
縁故がないと入れないなんて噂の立つところも含めて5校受けて2校の合格をいただいた。
私自身小学校受験をした。
受験といっても田舎の国立大付属だったので大したことはやってなかったと思う。
いわゆる受験のための幼児教室みたいなのにも行ってなかった。
特に私自身は子どもに有名小学校に入れたい!みたいな希望はなかったが、妻の熱量はすごかった。妻としては、中学高校と毎回のように受験勉強する必要のない私立小学校に入れたほうが後々助かる、という気持ちだったようだ。
いわゆるお受験ママのような感じで娘にもかなり厳しく接していた。もともと妻の口が悪いこともあるのだが笑。
子どもがかわいそうになり妻とも何度か口論したことがあるが、平日はほとんど妻が面倒をみてくれている手前そんなに口を出すことはなくなった。
小学校受験を乗り越える家庭にはいろいろなパターンがあると思うが、我が家ではのびのびと勉学に励む環境というよりは、厳しい妻の指導の下に訓練されているような状況であった。
もちろん私も教育を放棄していた訳ではなく、一緒にお風呂に入ったときに歌の練習をしたり、大量の絵本を図書館で借りてきて寝る前に読み聞かせをしたり...
平日に協力できない分、休日は運動を教えたり工作することで微力ながらサポートした。
という夫の言い訳はここまでにしよう。
小学校受験というのはかなり特殊だ。
妻が行けないときには私が幼児教室に何度か連れて行ったが、小学校受験を突破できる子どもは、運動神経がいい、頭がいいだけではなく、受験に特化した訓練を積んでいなければ難関私立には入れないと感じた。
その訓練を厳しく指導される中で、自信、自己肯定感を失っていないか非常に心配ではある。
受験合格と引き換えに失ったものもあるように感じるが、努力が合格という形で手に入ったことは純粋に嬉しい。
我が家には縁故はないが、一般家庭とは異なる点も多々あると思う。
私が医者、妻は医療関係ではないが外資系企業で働いているので世帯年収が一般に比べると多い。お互い職位は別にえらいもんではないが、職業的な箔はある。
受験対策のための教室や教材については制限をかけずに妻にお任せして全部OKとしていたので相当な費用がかかっていたと思う。おそらく100万ではきかないだろう。
それにちょうど妻が第二子の育休中であり、平日も受験対策のために妻が時間を割くことができていた。もちろん義理の両親の協力があってこそだが。
その中で妻と子どもが取り組んでいた内容を大まかに記録しておく。
正直、これで受からなければ縁故がないと受からないんだろうな、と思いたくなるぐらい二人は頑張っていた。
受験の約1年前から幼児教室に通い始めた。
各学校向けの対策講座ということで、朝はどこそこの教室、午後からはまた別の教室へ、なんてことも多かった。
平日は朝7時に起床、過去問に取り組んでいた。過去問も一度間違った問題は修正液や消しゴムで筆跡を消して繰り返しやっていた。
保育園から帰った後は、体操や工作をメインに行っていた。専用のボール、フープ、縄跳びなどを購入して教室で習った体操や過去問を参考に取り組んでいた。廊下を利用して的当ての練習も毎日やっていた。
行動観察対策として、私や妻も参加して共同で工作に取り組むこともあった。
出掛ける際にも幼児教室が出しているi pad用アプリも使用して車内でやっていた。
また、印象に残る経験をさせるために、日本総合教育舎が主催しているイベントに何度か参加した。
家族旅行でも受験を見据えていろいろな経験をともにした。言い方は悪いが、「思い出も受験に利用する」ということだ。
サファリパーク、動物園、水族館などで実際に触れ合ってみる。キャンプに出掛けて火起こしをする、飯盒炊飯をする。
面接シートにももちろんこういった経験は書いていたし、娘にも面接練習としてこれらの経験を交えた上で自分の言葉で話せるように訓練をしていた。
父母としてもこういった体験を交えつつ我が家の教育方針を伝える練習を行った。
怒られて泣きながらも取り組む子どもの姿に心が痛んだ。正直、子どもの精神面を考えると決して褒められた指導法ではなかったと思う。
幼児教室の先生が言っていた中で印象的であったのは、「子どもを作りこみ過ぎないようにしましょう」という言葉。子どもの性格や行動を大人が作りこみ過ぎず、子どもらしさを残しましょうという意味で使っていたのだろう。
逆を言えば、子どものあるがまま、のびのび自由に取り組むだけでは受からないのだ、という小学校受験をよく表現した言葉だと思う。